fc2ブログ

目覚めた時の解放感

今日は少女が列車に轢断される夢で目が覚めた

ガタンゴトンという電車の音に鈍い音

それはまだ続いている

私に最高の目覚めを持ち運んできてくれた列車

先ほどから頭の中で蛆虫の声がする

ズルリズルリとオノマトペを発しながら

頭の中を這いずり回っているのだ

マイムマイムを踊りながら這いずり回るのだ

いつもながらだが朝は空腹感に襲われる

空腹感が身の丈程の刀を持って追いかけてくる

寝起きは甘い物が欲しくなる

甘い誘惑と甘い裏切りだ

甘い裏切りとは眠気だ

眠気は今、訪れた朝というものを裏切り次の朝を欲する

そして禁忌の声をあげるのだ

そういえば先ほど水子が列を為して部屋を横切った

あれから肩が重いのだが何人かのやや子が

私の部屋に残り、やや子踊りをしているようだ

午前三時、丑三つ時に来訪した早朝は乱チキ騒ぎだ

私にとって最高の朝がいつもの様に来訪したようだ

スポンサーサイト



電波ブギー

台風が去った

私も何処へなりと去ってしまおうか

それが最善策だと誰かが言えば

私はそれに順ずるだろう

それが本質的な最善策でないとしても

私は期待に副うしかできない

私はピエロかクラウンかアルルカンかハーレクインなのだ

日曜日には砂漠の中のテントで踊るのだろう

それが最善策なのだ

今日、気がついた事

雨降りの時は傘を差した方が好い。

Bittern

雨が降って晴れた 砂が泥に為って復乾き砂と為った

この永久機関は消滅するのだ いつかはきっと

さぁ猫邪裸子で遊ぶのをやめよう

今日はいい天気にはならない

そんな気がするけど 何処かへ出かけよう

それが虹の降る場所だろうと下町のドブ川だろうと

僕らが一緒なのに変わりは無い

君は携帯のストラップだ 僕は人間だ

そんな事はどうでもいい 一緒に居れるだけで

僕らは久遠の紛い物を演じ永遠ではない流れに諂おう

ソーシャルアクション

私は大部分の障害者が嫌いだ。精神障害者だろうと肉体障害者だろうと。しかも割りと健常者に近い障害者だ。

なぜこんな話をしたのかと言うとTVを録画しようと思い、古いビデオに上書きしようとしてビデオテープの中身を確認していたらこんなVTRが出てきた。

何かの討論番組だ。自殺は良い事か悪い事かという有触れた話題の討論だ。そこで「自殺は自分がしたければしてもいい。周りの整理をしたら」等と言う若者が主張していたのだ。そこに脳性マヒでほとんどの筋肉が動かなくなった少年(15)が出てきて「私は人の手を借りないと自殺することもできません。自分だけではどうしようもできません。生き地獄です。でも私はあと何年かしたら確実に死ぬ。私が生きれない分、皆には生きて欲しい。」とコメントしたのだ。シーンとする会場。そこでビデオテープは終わっていたので最後はどうなったか知らないが、この少年は卑怯だ。自らを売り同情を乞うている。感情乞食だ。私がその場にいたら言ってやるだろう。「貴様は生き地獄だと行っていた。私はお前を殺し、死より辛い罰を受けてやる」と。その少年の老い先は知れていても殺してあげたかった。これも一種の同情かもしれない。

乙武も一種の確信犯だ。自分の障害は個性だといい、人とは違うと言い張る。それしか武器が無かったのだろう。現在はスポーツライターをしているらしいが、そこには障害が持ち込めない。つまり武器を失っているのだ。自分の名誉を上げるために障害を曝け出し己の社会的地位の向上を図っている。そして社会に啓蒙をし、また己の住める場所を公共的に作らせるように暗黙にサポートさせる。社会的乞食。それが乙武なのだろう。

ホーキング青山も似たことしかしていない。障害者芸人と己で名乗っておきながらネタ等で笑わしてくれないのだ。真面目に議論する。芸人の意味が無い。

どこかの知恵遅れは下手な絵を書き芸術家を気取っている。

今、挙げたのは自分を売り同情に似た何かを乞い、それで生活しているのである。昔の見世物小屋のようだ。ただ、違うのが我々が笑うに笑えないのだ。笑えば社会的に何かしら言われるだろう。

感情乞食は同情しか乞いてないのだ。笑いや怒りなども乞うて欲しい物だ。

私が前に住んでいた所では変わった障害者がいた。電動車椅子に乗っているのだが、すれ違い様に「あんちゃん。俺はみての通りだ。ちょっと荷物持て。」と偉そうにいってくるのである。そして荷物を持ってあげると「買い物付き合えや。」と買い物にまでつき合わせ「あの棚の一番上とってや」等と言うのだ。この図々しさ。先ほど挙げた他の人は図々しい。だがそれを暗にほのめかしている。この人は隠さない。「俺は障害を持っているから特別な扱いをうけるのは当たり前だ」という姿勢が見える。そう乞食には堂々としていて欲しいのだ。己に誇りを持ち、「同情してください!」と声高らかに言う障害者が私は好きである。同情をして欲しくない障害者はメディアに出るなと言いたい。










乞食も三日すれば忘れられぬ

乞食は気楽なもので、三日もやるとその味が忘れられなくなる。悪習は染まりやすく、改め

るのは困難であることのたとえ。

嘘をつき吠える犬

 世の中の人間は二分に別れる。それは優秀な人間と劣悪な人間である。私はどちらかと言えば劣悪な人間だ。だが、そこで悲観して止まってしまえば惨めで余計に劣悪さが増すのだ。劣悪な人間が優秀な人間に勝るにはどうすればいいのか?それは簡単な事だ。それは優秀な人間を超えればいいのだ。そして勝者は優秀な人間、敗者は劣悪な人間と再分配できるのだ。だが劣悪な人間は何をしても優れない。テストなど頭を使った事でもスポーツなど体を使ったことでも。そう、それは遺伝子の差だ。中学生の時に誰もが習ったであろう優性遺伝子、劣勢遺伝子の法則だ。優勢に勝るためには、いや同じ土俵に上がるのには劣勢x劣勢の遺伝子か優勢x優勢の遺伝子を持っていないとお話にならないのだ。だが勝負とはバーリトゥードゥだ。多少の無茶をすればいい。遺伝子を根底から覆せばいいのだ。

 そう殺してしまえばいい。優秀な人より優秀な人を殺せば殺した優秀な人はさらに優秀となれるし、劣悪な人が優秀な人を殺せば優秀な人間の出来上がりだ。なぜならば優秀な人間の命を超越できたからだ。だがこんな日記を読んでも人はキチガイの戯言だと思うだろう。

否、これは世界の真理だ。”前に自己の中で確立し、己の善悪の判断と共に仲間に認めてもらうことが「文化」なのでは”ないかと書いた。そう人殺しで優劣を決める文化は昔からある。今でもある。それはアフリカの原住民等ではない、今の日本社会でもそのような文化を持っているのだ。ダークヒーロー崇拝という文化もそれに当てはまるだろうがもっと根底からある物がある。それは”法”である。例えば窃盗をする劣悪な人間がいる。それを法的に裁くことによって社会から黙殺する事が可能なのである。社会は罪を犯した人に厳しい。例え更正に向かっていても厳しいのだ。一度、罪を犯した人間を就職させてくれる会社など一握りの米ほどしかないだろう。罪人は更正をすると言ってもドカチンやアルバイトといった社会の底辺でしか暮らせないのだ。しかも社会は厳しい。就職した、アルバイトをしている等と言っても罪は一生圧し掛かる。就職先だろがアルバイト先だろうが過去の罪を理由に解雇等されたりするだろう。待っているのは孤独死だ。それは社会が殺したのに等しい。つまり罪人は劣悪であるが故に優秀な法に殺されるのだ。

 実はこれはもっと原始的な所でも見て取れる文化なのだ。野生の犬の群れでは見張り役がいる。その見張り役は外敵が来たら吠えて知らせるのだ。群れと言うメリットを最大限に生かした習性だ。だが、時偶に”嘘をつき吠える犬”がいる。外敵がいないのに外敵が来たと吠えて知らせるのだ。そうしたら群れは逃げなくてはいけない。それは集団でバラバラに逃げると言う事だ。群れでなくなる犬の集団は単独で身を危険に晒すことに等しいのである。もし、その嘘がバレた時、その嘘をついた犬は群れから外される。はぐれ狼などはその代表たる物だ。犬というのは群れで暮らすのでメリットがあるのであり、そのメリットを失う事は生死に関る。これは犬の中で”嘘をついたら群れから外す”という法があって成り立っているのだ。人間社会も同じである。

 だがもし。このはぐれた犬が群れを全員噛み殺したらどうなるだろう。法と言う物は意味を持たなくなる。”群れから外れる”というデメリットは無くなるのだ。群れは存在しなくなるのだから、群れもへったくれも無くなり、群れでのメリットという概念は無くなるのだ。だが待っているのは死な事に変わりはない。これは人間社会に当てはめてもおかしくないのだ。罪人が法に叛旗を翻し、調停等で裁判官や警官を殺せば死刑になる確率は高くなる。だが”孤高”の存在となれる。それは優秀な人間だ。死刑にされるが社会には関与ができなくなるので罪を背負って生きなくてもいい。そう、自由で孤高の存在となれる。

 私は劣悪な人間だ。いつ社会に叛旗を翻しても捨てる物はない。むしろ孤高の存在となりたいのだ。そして優秀な人間を見返してやりたいのだ。

稲光で目が覚めて

鈍色の曇天に光彩が放たれる

そして雷鳴が轟くのだ

雨は気持ち程度しか降ってくれず

落雷によって発火した家は焦れこむように

くすみ、焦げていく

煙は鈍色と混ざりなんとも言えない階調となる

気づけば今宵も知らない間に雷神の宴が終わっている

そして遠くの方で稲光

陰々滅々とした稲光の明るさは正に僕の心の内だ

精神主義に準じれば稲光は光ではない

闇だ

私の心を暗く、照らし出す闇だ

・・・鏡にも映らない闇に寂々と雨が降る

殺人願望者の自己正当化

韓国では犬を食べるのは常識だ。日本にも犬料理を出してくれるお店がある。その犬は食用犬であり、生まれた時から食肉にされるという運命の本にあるあるのだ。その犬は余程の事がない限り食肉として一生を終えるだろう。その点、われわれ人間は食用にされる運命を持って生きるなどという概念などない。我々は犬から比べれば、かなりの自由である。

また韓国では猫も食べると言う。犬料理は有名だが猫料理はあまり聞いたことがない。韓国では犬の肉より猫の肉の方が安価らしい。水木しげるの本で呼んだ情報なので真偽は定かではないが、昔の日本では三味線にするために皮を剥いだ猫を食べていたらしい。淡白でいて河豚のようであり、「岡河豚」と呼ばれていたほど美味しいそうだ。それに比べ、人肉は硬く筋張っていて美味しくないらしい。韓国の隣国、中国ではいろんな食文化がある。例えば蛙、蛇、海星や猿まで食べるらしい。これは立派な文化である。

中国にはこんな法律があったらしい。

・浅く埋めることを禁じる、3フィートの深さに埋め、その上に穀物を植える

・道路の近くに埋めることを禁じる

・泣き叫ぶことを禁じる

・喪服着用を禁じる

これは中国の土葬の仕方の法律である。死体が埋められたのを知り、それを掘り出し食肉として売る輩がいたのだ。中国では人肉まで食す文化があったのだ。しかし日本も寛永の大飢饉の際には当時の食文化にはない牛や馬、そして死んだ人間をも食べていたと言う記述が残っている。つまり、人肉とは食べられないほどではないのだ。どこかの国の先住民は人を殺して食べることによりその人間の力が得られると信じ、近年まで食人をしていたらしい。ここまでくると立派な文化である。

今、日本で自殺サイトで知り合った人間を己の快楽のために殺した人間が話題になっている。だが、自殺志願者を殺すのは本当に悪い事なのだろうか?今だから告白するが私はかつて「自殺志願者と殺人願望者」をいうスレを2ちゃんねるのメンタルヘルス板に立て、自殺志願者を殺し、その肉を食そうと企てた事がある。だがスレは削除され計画のままで終わったのだが。そう、私は一般的にいう「カニバリスト」なのである。人を食す事は今となっては「禁忌」であり、それを行った物には社会からの排撃が待っている、私はそれでも「禁忌」に触れたいと思っている。食人は兎も角とし私は自殺志願者を殺す事はいい事なのではないかと思っている。私はかつて自殺志願者であった。社会を悲観し交友関係に畏怖を覚え精神的にも恵まれていなかった。そしてオーバードズやリストカットを繰り返していた。まさに生き地獄であった。もし、あの生き地獄を楽にしてくれる人がいたら、とても感謝したであろう。だが、今回の事件は苦しめて殺したので些か悪感を感じるが。もし事前の交渉の基に、決められた通りに楽に殺すのであればそれはいい事なのではないだろうか?私にとってそれは犯罪者ではない。立派なヒーローである。その見返りとして食人をさせてもらうのは、構わないのではと思えてくる。それがもし、社会の中で成り立てばそれは立派な文化である。

私が何をいいたいのかと言うと、自己の中で確立し、己の善悪の判断と共に仲間に認めてもらうことが「文化」なのではないかと思うのだ。欧米の自然保護団体が鯨を食べるのは野蛮だという。もっととち狂った団体になると牛を食べるのも野蛮だという。これは明らかな自己の「文化」の差である。だが人殺しは本当に悪い事だと誰もが思う。だが、私は違う。

ケースバイケースで人を殺すことは善い事だと思っている。そして食人も文化の一つだと思うのだ。

日本社会では犬を食べるのは”常識”ではない。だが韓国では”常識”であるのだ。そしてどこかの国の先住民は人を食べる事が”常識”なのである。

私は文化を吸収、新提する事で日本社会が一歩前進すると思っている。

偽りの雑誌

今日は週刊フライデーの発売日だ

フライデーは金曜日発売だからフライデーなのだろう

少年サンデーは日曜日発売ではない

これは無垢な少年に偽りを植えつける機縁である

無垢な少年は少年サンデーの発売日を日曜日だと思い成長する

そしてフライデーに記してあるゴシップ記事を信じ込む

そうして社会は間違っていると誤認させるのである

これはマスコミの植えつけたアジテーションである

マスコミは自分達を黙殺し、社会に意趣返しをさせようとしている

それは再びマスコミのゴシップ記事となり、報復者を増やすのだ

蝉時雨

とてもつもなく夏だ

蝉時雨が真夜中まで続くのは

都会に膏蝉の吸う涙がないからだ

それに比べ人間様は甘露を舐め続け

涙の木を伐採する

そうしてまた甘露を舐める

それが己の首を絞めていることに

気付かないままで甘露が果てて死ねばいい

人間など7日の命の価値も無い

蝉には70年鳴き続ける価値がある

蝉時雨よ、途絶える事無く続け

春夏秋冬と鳴き続け冬虫夏草に脅えてくれ

↑