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肉塊奇譚

どぶ川のきらめきが僕にとって唯一綺麗な想い出でした。

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ピロラグニア 

タバコは煙を生み出す

この煙に意味は在るのか

意味など無い

惰性の生産でしかない

社会は私を惰性の生産で生み出した

私に意味など無いのだ

私は禁忌の欠伸をした

布団がやけに遠い

今日は一日だけでいいんだ

そんな金曜日の朝

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2006/02/10 Fri. 00:00 | trackback: 0 | comment: 0edit

なぜ人を殺してはいけないのか 

これは人が一度は思う命題である。簡単な事に見えて非常に難しい事だ。

ここに私なりの解釈を述べておこうと思う

私は”殺してはいけない”とは思わない。殺す事に関しては善し悪しは別として可だと思っている。責任を負えば人は人を殺してもいいと思っている。現在の日本では人を殺すと刑罰を受ける。社会的制裁も受ける。それを負う事によって他人を殺す事はいいと思っている。こんな事をいうと被害者感情からしてみればムカッ腹の立つ事かも知れないが、社会が刑罰を定めた時点でこれは成り立っているのだ。人を殺しても刑務所に10年入り、出所後社会的に不有利な立場になり、蔑まれ暗い一生を送る事を覚悟していれば人を殺してもいい。更に家族、親類等も同じ立場になるのである。死刑というのも同じような物だ。人は人殺しになると社会的に相殺されてしまうのだ。これはどの犯罪にも言える事である。窃盗、恐喝、暴行・・・すべて覚悟を決めているならばやってもよい。

そういえば野犬の群れで一頭が群れの仲間を殺した時に群れを追われ社会的相殺を受けるという話を聞いた事がある。原始的な観点からも罪を犯しても同等の代価を払えば罪を犯してもいいと思っている。

しかし現在の日本の刑罰が軽すぎて罪人が増えすぎた。三国人などは態々罪の軽い日本に来てまで罪を犯す。彼らの国ではその罪は死刑に値する物でも日本では懲役3年程度だそうだ。日本人は刑罰の在り方を考えるべきである。

私の発言は道徳的観念から言えば間違っているかも知れないが道徳が正解だとは限らない。民主主義の錯覚かも知れないのだ。私は人を殺さない。なぜなら”覚悟”が出来て無いからだ。

2006/02/09 Thu. 00:00 | trackback: 0 | comment: 0edit

 

私は存在していたのだろうか

そう考えると存在していなかったのかもしれない

私は無だったのだ!!と確信した刹那

体が砂のようなりに風に流されて行った

風に飛ばされながら私が無ならば風に飛ばされないだろう

存在すら無いのだからと思った

刹那、私がいた

私はここに存在していた

無は存在しなかった

2006/02/02 Thu. 00:00 | trackback: 0 | comment: 0edit

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